明治大学校友会葛飾支部

第3代 泉支部長は箱根駅伝出場で初の2連覇を果たしていました

- 葛飾地域支部と箱根駅伝のちょっといい関係 -

▲9区泉勘次郎から10区永谷寿一へのタスキリレー(大正14年)

箱根駅伝が誕生したのは、1920年(大正9)、今から94年も前のこと。 その4年後の1924年(大正13)第5回箱根駅伝で明治大学は劇的な勝利を収め、さらに翌年の第6回も連続優勝を果たしました。 葛飾支部第3代支部長・泉勘次郎氏は、この2連覇を達成した第5回と第6回大会にいずれも出場し、それぞれ9区を走破しています。 また、1926年 (大正15)の第7回大会では2区を区間タイム1:22:22で走り、明治大学は総合2位でゴールしました。

▲第6回大会 1925(大正14)
芦ノ湖を背に砂利道を力走する明治の6区江俣広(右)。
明治は7区でトップに立ち9区を走る泉勘次郎もトップで襷をつないだ。

第7回大会 1926年(大正15)
明治のアンカー永谷寿一が中大の湯本幸一を大森で逆転したが日比谷で抜き返され2位でゴール。









箱根駅伝が誕生したのは、1920年(大正9)、今から94年も前のことです。 1920年2月14日午後1時に有楽町の報知新聞前をスタート(学生のための大会ということで、午前中は勉強時間に充てるとして、午後1時から行わました)し、 1位の明治が闇夜の中を箱根町青年団が灯す松明を頼りに箱根に着いたのは、午後8時半を過ぎていました。

1917年(大正6)に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われました。 読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーでした。 東西対抗で行われたレースは大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となりました。

箱根駅伝は、東京・読売新聞新社屋前~箱根・芦ノ湖間を往路5区間(108.0Km)、復路5区間(109.9Km)の合計10区間(217.9Km)で競う、学生長距離界最大の駅伝競走です。 関東学連加盟大学のうち、前年大会でシード権を獲得した10校と、予選会を通過した9校、および関東学連選抜を加えた合計20チームが出場します。 今では元日に行われる「全日本実業団駅伝」(ニューイヤー駅伝)とともに正月の催事として定着しています。

1920(大正9)年の第1回大会に東京高師(現・筑波大)、早大、慶大とともに出場した明治大学は、最終区で高師に11分差を逆転され25秒差で涙をのむ劇的な幕切れでした。 大学駅伝は数々のドラマを展開しますが、その魁となった名勝負として今でも語り伝えられています。

翌年の第2回大会(1921年)では早稲田を9区で逆転し初優勝、そして1924年(大正13)の第5回大会では最終区八つ山橋手前で高師を抜き去り逆転、 第1回大会の雪辱を果たす劇的勝利を収め、続く1925年(大正14) 第6回大会では通算3度目の優勝を2連勝で飾りました。

*横浜市立大学、明治大学体育会競走部、箱根駅伝記録館のウェブサイトより参照、引用抜粋しました。